読者の声(2)
メタファーとは?
次世代HIについての研究発表で頻繁に使用した、「メタファー」という言葉についてご質問をいただきました。
調べても「隠喩(たとえ)」としか出てきませんでしたので・・・
メタファーということを理解するには、まずアフォーダンスという用語(認知科学用語)を頭に入れておく必要があります。
ではアフォーダンスとは何か?といっても一言ではうまく説明できないので、例をあげて説明しましょう。
例1:ドアノブ
ドアノブがついているのを見て、人は「ああ、このドアはこのノブを回して開けるのだな」と考えます。普通の人は「このドアはこのノブを持って横に引けば、ふすまのように開くのだな」とは考えません。
このように、あるものの形状自体にそのものの機能を示唆するような働きがあることを、アフォーダンスと呼びます。
アフォーダンスを頭に入れたところでメタファーの話に戻りますが、アイコンやボタンなどの形状は、現実のものに似せて作成することが多いですよね? つまり、アイコンやボタンの形状は、現実に存在ものの隠喩(メタファー)として存在する訳です。
なぜ現実のメタファーとしてそれらのものを作成するのでしょうか? その理由は、現実の物体が持つ形状を利用する(メタファー=隠喩を使用する)ことで、ディスプレイ上のアイコンやボタンが(現実の物体ではないのに関わらず)、アフォーダンスを持つことができるからなのです。
つまり、現実の物体が持つのと同等のアフォーダンスを GUI上の各オブジェクトが持つことになり、そのためユーザーは(現実世界との類比しているため)より容易にGUIの世界を利用することができるようになる、という訳です。
例2:ゴミ箱
現実世界では「いらないものを放り込むもの」。 GUIの世界でも現実のゴミ箱の形状というメタファーを用いることによって、いらないファイルなどを捨てるためのものであることをユーザーに類推させることができます。 (1998.09.14)
紙マニュアルレス
当研究所にいただいたご意見、ご感想のなかから興味深いものをご紹介するコーナーです(もちろん脚色がかなり入っています)。今回は研究発表「役割の変わる紙マニュアル」についてのご意見です。
クライアントからはPDF化してくれという要望が多いのはわかりますが、ユーザーサイドは否定的なのではないでしょうか? 「あんな使いにくいものを渡しておいて、それでOKというメーカやベンダの気がしれない」「高い金を払うユーザをバカにしているのか」という意見をよく聞くのですが。
この辺も難しい問題ですね。
少なくとも店頭売りの製品から紙マニュアルを全廃してPDFマニュアルで済ますのは論外です。このことは今回の研究発表を見てもご理解いただけるのではないかと思います。
しかし、ダウンロード形態で配付するようなソフトウェア(特にバージョンアップ版の配付)に関しては、マニュアルがいらないユーザーにとっては安価に手に入れられる可能性を秘めている、というメリットも見逃すわけにはいきません。
ユーザー不在のPDF化にはもちろん絶対反対ですが、PDF化することによって生じるメリットも存在することは確かです。メーカーに必要なのは、ユーザーにマニュアルの入手選択の機会を提供する、PDF化に伴うメリットをユーザーにきちんと還元する、PDFマニュアルを採用した意図/希望する利用方法をユーザーに分かりやすく説明する、という態度なのではないかと思います。
そういうことを考えていたら、(3〜4年前だと思うのですが)本田技研工業が新車をリリースする際に、担当の方が「今度の新車はコストダウンを念頭に置いた。だがそのコストダウンメリットはわれわれだけが享受するのではなく、お客様とメーカーで半分ずつ分かち合うのだ」と説明していたという雑誌記事を思い出しました。
他業界のことと一蹴せずに、この姿勢を見習って欲しいものだと思います。
ちなみに当研究所が「役割の変わる紙マニュアル」で主張した電子マニュアルとの組み合わせは、OSが提供するヘルプエンジンを利用した電子マニュアルを想定していました。文脈から当研究所の意図は明らかだと考えていたのですが、誤解を招くようであれば今後修正させていただきます(謝)。 (1998.12.07)
バスの運賃システム
「バスに乗るとき、不安になりませんか?」の「乗る前後の手続きが決まっている鉄道と違って、この次元で統一のとれていないバスという乗り物には、もうすこしユーザーに優しくなって欲しいと思うのですが、いかがでしょうか」という問いかけに反応をいただきました。どうもありがとうございます。
バスの件は確かにそう思います。
でもこの問題はバスの話だけではないような気がします。やはり情報機器や家電製品の操作方法も統一されるべきとお考えでしょうか?(文意を元に編集しています)
結果的にその方向に進めばそれで良いと思いますが、必ずしも「統一」それ自体が目的化する必要はないと思います。統一されるというのはあくまで結果であり、目的ではないのですから。
ユーザーの不安を取り除き、ストレスなく操作(使用)できる環境が用意できるのであれば、必ずしも操作仕様の統一は必要ではないように思えます。
今回のバスの問題は、ユーザーに適切な情報を提供するシステムが欠落していることです。従って、そのようなシステムが何らかの形でユーザーに提供されるのであるならば、システムの形式が統一されていなくても特に問題とはならないのではないかと思います(もちろんある程度統一されているに越したことはないのですが)。
インターフェースの出来/不出来に関する問題は、結局ユーザーが自らのタスクを自然に達成できるかどうかにかかっています。最初に統一ありき、という方向で性急な議論がなされてしまうと、結果としてユーザーの不利益につながる可能性は否定できません。
やはり本当に使いやすいデザインがなされた結果として、業界やある製品分野において統一感のある操作仕様がデファクト化し、自然に広まるというのが理想なのではないでしょうか。
しかしながら、現状は使い勝手ではなく、単に市場シェアで優位を占めている製品の仕様がデファクト化しているに過ぎません。シェアを取ったものが正義という論理がまかり通る現状は、見ていて歯がゆいものがあります。(1999.03.11)
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